2007年2月18日
- Stage20 - ベトナム訪問記
フィッシングショーのあった週末、ベトナムのハノイへ行ってきた。
高級外車による送迎、超高級ホテルの最上階の部屋での宿泊、そして毎食の豪華な食事。
別にここでエグりぶりを自慢したいわけではない。そんな価値観はまるでない。
後に書く、内容のために書き記しておきたいだけ。対照として−。
深夜のルームサービス。 とっても旨いハンバーガーを食べた。いや、ほんと美味かった。
何をしてきたかは契約上、一切書くことはできないのだ。あしからず。
車中から眺めるハノイの街はとても活気のある街だった。
それは想像していたとおりで、僕はこの仕事が終わるのを心から楽しみにしていた。
人々のエネルギーが満ちあふれているのである。
早くこの街を身体一杯で感じたくてうずうずした。
日本も同じ時代を経験したと聞く。
戦後復興・高度経済成長のまっただ中、昭和30年代はまさにこんな時代だったと、その時代を知る人は言う。
ベトナムというと戦争のイメージも強く、地雷がまだたくさん埋まってるというイメージを持っていた。
そして社会主義国であり、貧しい。
東南アジアの周辺諸国が見せる成長からずいぶん取り残されているイメージを持っていた。
だけど、フランスもアメリカも支配することができなかった国でもある。
そして、近年、海外投資先として非常に注目されている国でもある。
最初の感想は、元気が溢れている国。
そんなベトナムの今と、日本の今。
それを比較して見てみたいと思っていた。
日本の今について、実はすごく悲観的になっている。
日本の今後と言ってもいいいだろう。
社会が病んでいる。
メディアもおかしい。教育もおかしい。企業もおかしい。
特に若い子の受け身思想について、すごく悲観的になっている。
与えられる教育を受けたから、若い子は受け身になってしまったのか。
社会というものを、自分で勉強しないし、見識を広げようとしない。
自分に与えられた目の前の任務に対して必要な勉強は一所懸命にする子が多い様に思う。
が、その任務が最終的にこの社会に何をもたらすのか、その事を考える為に知らなければいけない社会について、頭がいってないように思える。
だから、社会が見えていない。
与えられた情報だけで怒ったり悲観したり喜んだり。
小さいことにいちいち振り回される。
無知はどうしようもない。知らないことについて、考えることはできないから。
でも、このままじゃダメと知っていてもそこから進まない。
どこかであきらめているのだろうか。
もちろん若い子の全員が、ではない。でも圧倒的に増えた気がする。
社会に、外に、意識が向かなければ、意識は内向化し、自意識過剰や劣等感、ストレスにさい悩まされる。
トラウマやモチベーションと言った用語が氾濫するのも全ては自己愛によるものからだろう。
自己愛に終わりはない。
幻想にしかすぎないその劣等感やトラウマを大事にすればするほど、社会や外部への憎悪が生まれる。
それが新聞やテレビを賑わす凶悪事件のニュースとなって映し出されているのではないだろうか。
それに腐敗が前提の社会。政治も官僚も報道も癒着し腐敗が進んでいる。
もちろん腐敗は古代よりあっただろう。
が、腐敗を肯定して人々が生きたという時代は過去になかったと思う。
過去の人々は貧しかった。
その中での腐敗は人々の怒りというエネルギーを多量に産み出し、革命や政変の原動力となっていたはずである。
が、日本人は豊かになった。
世界一と言っていいほどの物質的な豊かさを手に入れた。
だから怒らなくなった。腐敗に怒っても長続きしない。
そうして段々と慣れていく。
2日間を終え、高級ホテルをチェックアウトして僕は自由の身になった。
スーツケースを転がしながら旅人街があるという旧市街へと向かった。
帰国する日まで5日間ある。
この5日間でなるべく多くのことを見たかった。
その為に大きなスーツケースが邪魔なのである。
だからそれを置く拠点としての部屋を探すために、旧市街の安宿を探す。
3軒目に訪れたホテルで契約。部屋は最低限のものは揃って1日10$である。
それにしてもバイクが多い。
そして交通ルールがほとんど守られてない。
信号無視・逆走・何でもありである。
交差点は、まるで騎馬戦の様相。各方向からそれぞれが行きたい方向に突撃。
ある一方通行では逆走するバイクの方が多かったり、と。
でも誰もぶつからない。
そして写真では伝わらない怒濤のクラクションの応酬。
でも、クラクション一つで殺人が起きる日本とは違う。
一つ一つの音は攻撃的であり、そこに愛なんか無いが、人間愛に包まれた社会がそれを許容させるのか。
それにしても、こんなとこ、歩いて渡れるのかと思うのだが、渡ってみると、ぶつかることもなく、みんなすいすいと避けていく。
宿にチェックインをすませて、バイクをレンタルする。
バイクは1日5ドル。5日間で20ドルで合意。
こうして基地を確保し、抜群の機動力を手に入れた。
フロントで200ドルを両替。なんと315万ドン。んん相場わからない上に計算難しそう。
もしかしたら部屋に帰らない日もあるかもしれない旨伝えて、出かける。
何はともあれバイクに乗りたいっ!
自分のは中国製の安そうなバイクだ。
周りを見ると、HONDAのスーパーカブが一番多くて、YAMAHAやSUZUKIのバイクもたくさんある。
ギアは4速ロータリーギア。
高校生の頃の寿司屋のバイトを思い出しながら、アクセルを開ける。
道路に出れば、ヘルメットのない視界と排気ガスの固まりが容赦なく全身を包む。
なんか懐かしい。日本で言う小僧運転だからだ。
あのスクーターのノーヘル二ケツで信号無視するあの感覚。(優等生はやったことないよなぁ)
ここでは、みんな小僧だ。
まずは腹ごしらえ。ワンタン麺。10000ドン。(70円)
味はと言うと、味の素入れすぎである。傾向としてたくさん入れてる店ほど美味いと評判になってる傾向有り。
腹ごしらえして、街で必要なものを買い集める。
まずは私服。バイクに乗っても寒くなさそうなアウターや、リュックサックもいる。
この国は買い物は全て交渉次第。
都市部の人の年収が日本円にして17万円程度のこの国だから、日本人は誰であろうと相当なお金持ちである。
現地のベトナム語をしゃべることができないと相当足下を見られるところから始まる。
地図を買うときは最初に向こうが提示した価格が600円。それを50円だと切り出し、じゃあ500円。いや50円。それでは300円。出しても60円だ。100円ならどうか。70円ならなんとか。じゃあ80円だ。と言ってようやく手に入れるという感じ。靴下一足からリュック一つまでそうである。
気が抜けないがこれで毎日やるのは大変そうだ。
こうして街を買い物しながら歩いていると、ひとつの姿が浮かんできた。
それはうぶな若い国に襲いかかる資本主義という構図である。
市場のあらゆるところに入り込んでいる、先進国の技術や製品。
特に日本製品の進出は目を見張るものがあった。
他のアジア諸国と変わらない、いやそれ以上に根付き、もはや思想として存在していた
街の裏手を歩けば、まだ洗濯物を手で洗っている人がいるのである。
洗濯機も普及しきってない一方、若者は携帯を片手にバイクを運転する。
バザールで必死に靴や洋服を探し求める人がたくさんいる一方で、高級ブランドの服を着て闊歩する若者も結構目にする。
すごい格差がこの国を包もうとしている。1次産業と2次・3次産業の格差が大きい。
ベトナムがドイモイ政策を掲げ、社会主義から資本主義の導入を決めたのは1986年である。
それから20年でベトナムは急激に経済成長し、都市部の人の収入も急に上がった。
日本も戦後60年で豊かな国になった。豊かになりながら少し遅れてマナーや環境に対する価値観が付いてくる。
マナーも環境も、自分以外のことを思いやるという文化である以上、自分に余裕があってはじめて付いてくる文化である。
60年かけてやった日本でもいまだにマナーの問題や環境意識が叫ばれているのである。
JTが喫煙者向けに広告を頑張ってるのもやっと最近のことである。
ベトナムでも物質主義や拝金主義が急激に浸透しつつある。
だけど、貧しい人もずっと眺めていると、みんな幸せそうに見える。
なんだろう。目標があるからだろうか。豊かになりたいという目標。
いい生活をしたいという目標。人類である以上、誰でも求める豊かさ。
今は、それがクーラーであり、バイクであり、洗濯機なのかもしれない。
やがて車になり、パソコンなどになるのだろう。
最後は、個を大事にした空間を求めていくのだ。
が、その行き着く先は今の日本である。
欧米を目指し、必死に追いついた日本は、何かを見失ってしまった。
日本が必死に頑張っている1972年に僕は生まれた。
近代史を勉強すると、1972年というのはすごく今を表す分岐点となる重要な年となっている気がする。
僕が生まれた年、ベトナムは戦争のまっただ中にあった。
アメリカの猛烈な空爆、ゲリラ戦、毒ガスに枯葉剤に地雷。
時代はまさに共産主義と資本主義の激しいぶつかり合い。
翌年、ベトナムは南北統一を果たし、共産主義国となった。
以降、世界中で共産主義という思想の崩壊が始まっていくのは皆さんが知るとおり。
結果平等の原則という人間の理想は、人間の欲望には勝てなかった。
1972年は色々あった。
まずは連合赤軍の浅間山荘事件。
これは最近すごく勉強しているテーマだ。
今の日本人の価値観を形成する上で、非常に重要な転換点となったのだと確信している。
続いて何だろう。
ニクソン訪中とか日中国交回復もインパクトがあった気がする。
共産主義と資本主義が互いに手を取る。あの当時そんな雰囲気はとてもなかった。
当時の日本のショックはどうだったんだろう。
今回、ベトナムにいる間に、アメリカと北朝鮮が核放棄で合意した。
6カ国協議とはいえほとんど日本の頭越しである。
いつまでこれを繰り返すのか。そんな失望。
1972年は沖縄返還もあった。
田中角栄が日本列島改造論を発表した。その後、総理大臣になり、以降地価があがってバブル経済へとつながっていった。
横井庄一さんがグアム島で発見された年でもあった。
終わらない戦後。当時の人はさぞびっくりしたんだろう。
でも、横井さんがグアムで過ごした28年だったかの期間の間、日本は間違いなく豊かで幸せな国になったと言える気がする。
おかえりなさいムードは暖かかった。
でも、70年代後半に北朝鮮に拉致された方々が2002年に帰国したとき、日本は前より良い国になったのかというと全面的には言えない感じがする。
他、山口百恵が出てきたり、リブヤングでキャロルがデビューしたりとか色々とあったようだ。猪木と馬場が日本プロレスを脱退したとか(笑)
産業でいえば、ぴあが創刊され、前年にマクドナルド、73年にセブンイレブンがはじめて誕生したらしい。
情報化社会の始まり、ファーストフード時代の始まり。
それは1回の体験性の喪失の始まりの始まりである。
このことも今の自分の中のすごく大きなテーマである。
そんなことばかり考えながら、ラオス国境を目指して18号線を西に向かっていく。
実際はボーッとしていると、あっという間に死んでしまうので集中して走ってたけど。
トラックもバスも容赦ない。我が物顔で走っている。
避けなければ死んでいたというシーンがひっきりなしにある。
生死が関係するという選択をするのは久々だ。
それは怖いことでもある。失敗すれば大きな痛手を被るのだから。
だから日本は社会整備を進め、本当に安全な社会を作ってきた。
が、ほとんどの選択に生死が関係なくなってしまった。
生への選択の連続こそが、男の自信を作っていくのだと最近気付いた。
そのチャンスが日本にはほとんど無いことを、こうして海外にいると気付いてしまう。
安全な社会を目指した結果の代償。これは大きい。国家規模で問題な気がする。
自信ってなんだ?
自信って最終的には自己の承認であろう。
自己承認するためには、承認するための情報が必要である。
情報は出来事や成果といった自己で承認できるものと、他者の評価や承認が必要なものの2種類あると思う。
他者の承認ばかり得ようとしている人が多いのは、そうして選択の機会を奪われ、自己の承認ができにくい国になってしまったからではないだろうか。
他者の承認は、終わりがない。それが怖い。
物質主義、ステータス主義、拝金主義。
みんな外部より評価される事ばかり頑張ってる。
人にどう思われるかなんて、たいした価値はないのに。
やがてフングという街に入る。ハノイから30〜40km程度。
夜はここに泊まることになるのだが、この時は目もくれずに通過した街。
何度か、大きな川があって、そのたびにドラム缶で作った橋がある。
他の住民が5000ドンで渡っているのに、外人と判るや2万ドンと言う。
英語も通じないしホント大変。交渉決裂するときは日本語でまくしたてて怒った振りをする。毎回1万ドン(それでも70円)で何とか通してもらった。
夜は街の屋台で食べる。
フォーやブンチャーが美味しいのだが、身振り手振りで出てくるものはいつも何か違うもの。お行儀よくやってられないので、隣のテーブルの美味そうなものを指さしては頼む。
豚とフォーの焼きそばみたいなのは美味かった。後は・・・。
この後、なんとカメラの電池切れ。以降写真無し。
ガソリンもなくなって、これ以上進むとどうなるかわからないので、先ほどの街に引き返す。街の定食屋の軒先で夜を明かした。
とても汚く貧しい街だった。
定食屋のトイレはシャワーブースを兼ねた小さな部屋だったが、ボットンで悪臭に満ちていた。
ハノイから数十km離れるだけで、こんなにも変わってしまう。
このあたりの人の年収はとても10万円を超えるとは思えない。
彼らはその生活こそが当たり前なのだが、豊かな暮らしをしている日本人にはとても耐え難いものなんだろう。
定食屋は夜は飲み屋になった。男達がトランプをして賭け事を楽しんでいた。
みんな明るく良い笑顔で笑ってる。全ての人が順番に僕に話しかけに来た。
言葉が通じなくても一所懸命に。
一人、英語が何とかできる人がいて、ここから先はヘルメットがないと警察に捕まってしまうと言われる。
それ以前に免許無いし。国際免許も関係ない国なのだ、ここは。
昼間見たときはヘルメットをかぶってる人はごくわずかしか見なかったが・・・。
社会主義国の警察に捕まると思うと思わず身がすくむ。
ここは残念だけど、夜が明けてハノイに引き返すことにした。
ラオスとの国境まで行きたかったが、次に来るときは準備をしっかりして行けばいいのだから。
翌々日から、今度は西ではなく南へとハンドルを握り、街や人々を見る旅。
途中にあった日本の大企業のとても大きな工場。周辺はとても綺麗だった。
市外に出ると、市民が捨てたゴミの山に何度も出会った。
川にはたくさんのゴミが流れていた。
そしてヘドロときつい悪臭。
河川敷はゴミ捨て場である。
こんなところも日本の昭和30年代と一緒であろう。
自然が犯され、魚が住めない川や沼がたくさんあった。
環境の仕事をしている自分にとって、正直目を覆いたくなる光景がそこら中にあった。
でも、この景色の中で育つ子供達がゆとりある生活を手に入れた時、ようやく環境に対する意識が芽生えるのである。
うちの会社がこの国で仕事をするには、まだ40年はかかりそうだ。
そんなビジネスとしての視点でもベトナムを見ていた。
ハノイに戻ると、テトという旧正月を祝う行事に向けて街中一色に染まっていた。
街角、ではなく道の真ん中には風船売りやお花を売る人が。
通りがかった劇場の前では、ヒップホップのダンス大会やラップなども。
ここは社会主義国だったよなぁ、と。
今やベトナムはアメリカカルチャーに夢中だ。日本のカルチャーにも夢中だ。
ベトナムの子達でもアメリカの文化はかっこいいのだろう。
日本人がアメリカ文化に憧れ、影響を受けるのは、敗戦国という何か大きな劣等感がそうさせるのかと思って、苦々しく思っていた。
が、単純に若者はアメリカのカルチャーがカッコイイのだろう。
何がカッコイイんだろう。今度研究してみよう。
旅していて思ったのは、やはり日本人は今一度外部の設定をするべきだと思った。
外部とは、自分ではない何か。
意識として他の存在(より高みにあるかどうかは関係なく・・・)
団塊の世代より前の人はそれを持っていた気がする。
意識は外部へ向き、自己愛は自己愛でしかなかった。
いつからか、モチベーションとかトラウマとかいった言葉が生まれた。
モチベーションもトラウマも自己愛が見せる幻想の一つである。
社員からモチベーションが下がるなんて言葉を聞くのはつらい。
今の自分にはそれを救う力も、それを口にするむなしさに気付かせる力もない。
外部の設定がない自己愛がそうさせるのだ。
その自己愛に包まれている限り、満たされることは絶対にない。
長いものに巻かれて生きているうちはきっと気付かないだろう。
そこから出る方法とは。
そんな問いも続けていた。
自分の場合、ずっと前のことだが、ふと思ったのである。
誰にでもあるように、自分にもある特別な力。
その力を発揮して天分を生きていこうと。
そうでなければ、この国の将来を願い、戦争で死んだ多くの先祖様に申し訳ない。
生き残り、再興を目指して必死に生きた戦後世代の人に申し訳ない。
そう思ったときに自分の場合は、外部の設定ができたのである。
自分にとっての外部とは、歴史である。声なき歴史。それもリアリティある近代史。
だけど、これが全てとは思わない。
人によって天分が違うように、外部となるべきものも違うだろう。
だけど、せめて自分に関わる人、釣りでも会社でも、共に人生を歩み続ける人には、幸せに生きて欲しいのである。
その為に自分にできることとは。
最後はずっとそんなことを考えていた。
こうしてベトナムの9日間が終わった。日本に、家に帰る。
水が出る。お湯が出る。食べ物が買える。
街は静かで治安も良く危険な目にほとんど会わない。
何て豊かな国なんだと心から実感する。
しかし、これだけの国をたった60年で作り上げた日本人はほんとうにすごい。
心から感謝。親父や母さんに感謝。幸せだ。
つくづくそう思った。
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