数年前まで僕は釣り業界とはなんの関係もないアマチュアアングラーだった。
まさにソルトルアーのブームが加速する時代、雑誌や新聞を読むにつけ、同一メーカーのものばかり宣伝するライターやプロにいらだちを感じていた。
お薦めルアーが何で全部同じメーカーなの?って。あんたの側の釣具屋にはそこのメーカーの物しか置いてないのか、と。
決定的だったのはダイワのインターラインロッドだった。むちゃくちゃ尊敬する村越氏絶賛ということで大枚をはたいて買ったのに全然使い物にならない。村越氏までが翌年には普通のガイド付きに戻してしまって、これには失望の限りだった。
しかし、業界で生きる人は確かにメーカーの言いなりになってしまいがちだ。
氏には何かの事情がきっとあったに違いない。
だったら僕がそんな業界を変えてやる。
僕は4万円のロッド2本を叩き折ってある決意をした。
俺がプロになろう。
しかし、すでに僕には生きる道が見えていた。
商社のサラリーマンに憧れ、設備機器を扱う商社で全国、世界を飛び回る営業マンとして働いていていた僕は、仮にプロとして成功しても決して釣り業界に身を置くことはしないという誓いを立ててプロを目指す事にした。
まずは新聞社や雑誌社への売り込み。記事を数本書いて各社に持っていく。
しかし、当たり前の話だけど、無名のアングラーにスペースを与えてくれるとこなんか、そうそうある訳無い。
編集部まで押しかけていって話を聞いてくれても、当時情報にあふれていた東京地区ではなく、「千葉や神奈川の情報なら考えるよ。」とか、そんな程度。
一所懸命、記事を書き、何度ボツになってもしつこく投稿して、初めて記事が載った時は10部ぐらい買いあさって喜んだ。
やがて釣行記を書けばある程度は乗せてくれるようにはなった。その頃から、僕は数や型を自慢しがちな釣行記でなく、いかに楽しんだか、いかに考えたか、いかに満足できたかを書き上げていく釣行記を書こうとしていた。
しかし、なかなか無名のライターにそんなこと書けるスペースを与えてくれるところはない。
そこで思いついたのが96年の当時流行りだしていたインターネットだった。
ここなら自分が思い通りに書ける。
そんなんで、AreaやStyleなどを書き殴るように書いていった。開設して数ヶ月は一日、20人程度だったアクセスが、半年後には100人を突破。1年後には1000人近いアクセス数を叩き出すようになる。
そこでサイト名を変えて、「東京湾奥シーバス情報」をスタート。
97年の夏。ある事件が起きる。
僕は当時、シャッドを使ったトリックアクションで魚を獲っていく釣り方に夢中だった。当時、シーバスにはただ巻きが常識と凝り固まった中で、何か新しい釣りはないかと暗中模索の釣り。
あらゆるメーカーのシャッドプラグを買いまくり、テストにテストの日々。
その中で抜群だったのがメガバスのマーゲイだった。
これはすごいプラグだ。
この釣りを追求していくのはこのプラグに決定。そう思って、何個か買おうとする。
ところがどこの店にもない。
普段は行かない都心の上洲屋やサンスイまで足を延ばして、「マーゲイありますか?」、と聞いても店員が馬鹿にするような顔で、「ありませんねー」と答えられる。
しかも、なんか感じ悪いのだ。
これは僕が単に無知なだけだった。
当時、ブラックバスの大ブームとともにメガバスの大ブレイクの最盛期。店員もそんな問い合わせにうんざりしてたんだろう。僕はバスをやらないからメガバスなんてメーカーを知らなかったのだ。
全く買えないマーゲイに僕はぶち切れた。
いつもルアーを買っていた東京サンライズの染谷店長に
「買えないルアーなんてあってたまるか!そんなもんはメーカーの怠慢だ。」
などと怒り狂っていたのだ。
しかし、運命は動き出す。
東京サンライズにメガバスの営業マンが来た事から僕の存在が、メガバスに知られることになる。
その1週間後、9月上旬の辰巳で、僕はメガバスの社員にマーゲイの実力をまざまざと見せつけた。3時間ほどの釣り、マーゲイ(しかもすでに両目も無く、塗装もハゲハゲの)をただ1本だけ使い、スズキ級8本を含む33本をぶち抜いたのだ。
その時から僕はメガバス初、そして唯一のSWプロスタッフ、開発マリンエンジニアリングスタッフとして契約することになった。
ちょっとここで一言。
人には必ず、夢ってもんがあると思う。
その途中にある小さな目標もたくさんある。
それをかなえようと本気で思ったら、必ず口に出してみんなに伝える。
そして頑張る。
すると必ず、運命は動き出す。
誰かが助けてくれたり、とんでもない偶然が起こったり。
努力だけじゃ報われない。
祈ること。本気でその姿勢を伝えること。大事なことだ。
そんで、そうなると面白いもんだ。
メガバスのネームバリューはすごかった。
あっという間に連載がバタバタと決まっていく。
99年頃には月に月刊誌3誌、4本を書いて、週間新聞に毎週連載というとんでもない状態にまでなった。
「東京湾奥シーバス情報」も瞬く間に100万件を突破。釣りサイトとして完全に地位を確立した。
その中で守り通したファンや読者への約束がある。
一、契約メーカーのものでもいいと思ったものしか使いません。
一、契約メーカーのものでも悪いと思ったら絶対に紹介しません。
一、全く関係ないメーカーのものでも、いいと思ったら紹介します。
一、大会に積極的に出て、自分の普段の理論やメソッドを実証します
と言う、当たり前と言えば当たり前なんだけど、今までそんなプロアングラーが一人もいなかったせいもあって、僕の記事は多くの支持を集めたんだと思ってる。
その甲斐あってか、釣りビジョンの準レギュラーにもなり、知名度という点では若手のトップクラスの一人まではなった。
僕と同じスタンスで物事を書くライターも増えて、少しは業界やそれを読む読者も育てることができたんではないかと思ってる。(もちろん自分だけの力だけではないけどね)
しかし、30歳を迎えて、いよいよ本業が忙しさを増してきた。環境アセスメント業界内でも、若手の第一人者としてテレビ出演や論文等の依頼がたくさん来るようになった。(たまにテレビで白衣着て出ております。)
するといよいよ、SWのプロ活動に支障をきたすようになってきた。しばらくは頑張っていたが、完全にどちらも中途半端になってきた。本業も詰めが甘くなるし、連載の記事もクオリティが明らかに低下した。
そう思った時に、釣り雑誌の連載の全てを終了。
「東京湾奥シーバス情報」から「東京シーバスネット」に名前を変え、
Enjoy! Active Life
をキーワードにシーバスフィッシングを含めた、日常生活のあり方を提唱するサイトへと変えた。
最後に自分の中で思う存分、釣りの楽しさを伝える事がしたくなってきた
釣りは感動できる遊び。
時に手が震え、足が震え、鳥肌を立てることができる遊び。
釣るのは魚だけど、最後に求めるのは感動なんだ。
No Pain No Goal
僕がいつもサインに書く言葉。
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